最新更新日2018/07/17
平成27年度は、安仁神社と阿知、鹿忍を先史学と地名学で調査しました。
古代蒙古からの渡来人が見えてきました。
西大寺一宮 安仁神社の遥拝所巡り
備前一宮論争調査第一弾 |
綱掛石神社(岡山市東区東片岡 1695)は研究者以外には、ほとんど知られておりません。 『岡山県神社庁』HP には、「環状列石らしい磐境(いわさか)があり古代の祭祀跡があり 古代の祭祀跡とみられている。」とあります。 環状列石(ストーンサークル)について報告 します。
|
10 月 4 日の先史ウオークで、野崎豊氏から東片岡の最も古い重要な神社として、 素盞嗚 神社(岡山市東区東片岡)と妹岡八幡宮(岡山市東区東片岡 980)を案内していただいた。 素盞嗚神社は地図に無い神社であり、二つの神社は隣り合う山上の神社です。 古代にお いては隣り合う島でした。
|
藤井駿氏の『一遍上人の備作地方布教について』の論文は、 「一遍と備前国藤井の領主」に関する詳細な報告書で す。 藤井駿氏は昭和13年11月25日成稿し、『吉備考古』46号と47 号に掲載され、昭和55年の『吉備地方史の研究』に収録されています。 しかし、地元では知られてい ません。
|
一遍上人の安仁神社参詣は正安元年 (1299)です。 一遍上人参詣当時の安仁神社に関する調査報告は ありません。 一遍上人の参詣した正安元年(1299)の参拝ルートを考察し ます。 『吉備温故秘録』の邑久郡の説明に、玉島、小島、東幸島が記録され、「東幸島 西幸島は東片岡村の内、南幸田村にあり。 古へは神島の字を用ゆといふ。 元海中なりしが、貞享年中(1684〜1687)新田となる。」とあ ります。 現在の地形は江戸時代の岡山藩の干拓事業により陸地とな りました。 当時は島であり鶴山の麓までが海で した。 一遍上人は吉備の穴海を小舟を使用して参拝してい ます。
|
安仁神社の元宮に関する調査報告はありません。
木村堅一氏の鶴山山頂での「祭祀を行うに適した大岩発見」報告のみです。 これは大岩発見であり岩座発見報告ではありません。
浦上宏氏より「岩座と聞いています。 訪問するように。」と教示され ました。
|
古道里(こどり)地名から古代の古道が見えます。
安仁神社遥拝所の関連調査として、古道里地名を調査しました。 重要なのは江戸時代の地誌に古道里の記録が無いことです。
|
大伯と安仁神社を調査していて、阿知地名に注目しました。
『日本書紀』由来の地名です。
|
阿智神社(倉敷市本町)の祭神は宗像三神で
す。
祭神からは宗像神社であり、阿智神社では
ありません。
どうして阿智神社の祭神が阿智の祝(はふり)の祖・八意思兼命御児神(あめのやごころおもいかねのみこと)でないのかについて考察し
ました。 地名として西阿知があります。
|
平成9年発行の『牛窓町史資料編U』の槌ケ谷出土資料に、
|
http://www.geocities.jp/ki_warabi/index.htm 最新更新日2018/07/17