2018年07月30日
宇喜多氏使用・黒色火薬原料の生産・調達方法の考察
宇喜多氏使用の鉄砲生産地として備前長船説があります。黒色火薬は硫黄、硝石、木炭の粉末材料の混合物です。
弾丸用の鉛は、地元の長船町磯上油杉鉱山の方鉛鉱を使用していました。
長船町磯上油杉鉱山の「鉱石は明らかに銅・鉛・亜鉛鉱石で,鉄鉱石より鉄含有率が低く,硫黄分が非常に多く」と報告されています。 黒色火薬の硫黄も地元調達です。
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柴田一氏は、「長い間、秀家公は岡山県民から忘れられていたことになる。若くして文禄の役の総大将を務め、その功によって権中納言に進み、豊臣家五大老の一人になった。
この全国版の秀家公が地元岡山県民に忘れ去られていたのはなぜか。理由は簡単。秀家公の器量を不当に低く評価していたためである。」と説明してい
ます。
宇喜多氏に梟雄説があります。
村上岳氏(瀬戸内市教育委員会)は、「宇喜多直家に対する梟雄イメージの形成は、江戸時代初期に刊行された『太閤記』(小瀬甫庵著、1624
年初版、豊臣秀吉の一代記)の影響が大きいと考えられる。
その後岡山で編纂された地誌、軍記類もその影響を受けている。」と説明されます。
梟雄(きょうゆう)説の根拠は、戦国時代の武将の生き様として50
歩100 歩と考えます。
2014 年NHK
大河ドラマ「黒田官兵衛」の時代考証をつとめた小和田哲男氏(静岡大学名誉教授・日本中世史・戦国時代史)も梟雄説です。
しかし、梟雄説は明確な間違いです。 |
『備前記』(1700 年〜1717 年)の沢田村に、 「西方院上ノ山ヲ、妙善寺ノ古城ト云、此城ニ毛利幕下、薬師寺弥五郎、中島大炊ト云者居城之時、沼ノ城主、宇喜多直家目黒村ヘ出張シテ攻ルト云、・・・」
「毛利家ノ人数ノ、弓鉄砲ハ雨ニ濡テ用ニ不立ト云、」と記録しています。 |
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朝鮮通信使といえば、江戸時代を連想される方が多いのではないでしょうか。
それ以前、15
・6 世紀の室町政権下でも行われ、日朝関係は概ね平和な通交関係が保たれて来ました。 |
鼻塚(耳塚)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592 年・1598 年)で殺した朝鮮・明国人の耳や鼻をそぎ落とし持ち帰えり葬った塚である。
備前市香登に千(百)人鼻塚がある。宇喜多秀家と鼻塚との関係を考察したい。 |
岡山県立博物館で1 月16 日〜2 月15 日迄、平成26 年度岡山・高知文化交流事業交流展「戦国大名宇喜多氏と長宗我部氏」が開催されました。
展示品の甲冑の説明は、「宇喜多基家が天正10年(1582年)の八浜合戦で討ち死にした際に着用していたと伝えられる」とあります。 この甲冑は備前市畠田の三木一族の伝承では、「宇喜多秀家の長男(養子の宇喜多小八郎、後の元家)が慶長5年(1600年)関ヶ原出陣の際に着用した甲冑であり、大賀島寺へ預けたものである。」と伝承されています。
甲冑が小ぶりであり「15歳の若武者が着用」との説明に納得されると思います。兜に鉄砲の弾丸の通過した穴が見えます。
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瀬戸町から見えてくる鉄砲について しかし、瀬戸町の鉄砲についての調査報告は実施されていない。 |
坂根八幡宮(備前市坂根56)蔵の絵馬修復依頼が高嶋基先生にあり、5 月9 日に修復作業前の現物確認依頼がありました。 絵馬の精密な描写に注目し、竹原信之先生(岡山県立博物館)に調査を依頼しました。
5
月11 日に訪問され現物を確認されました。 |
平成24年1月9日に中西厚氏の紹介で安木義忠氏(長船町歴史研究会)に瀬戸内市長船町磯上油杉の坑道跡を案内していただいた。
磯上に油杉集落がある。 |
宇喜多氏が種子島に使用した弾丸用鉛の再現・実験計画(案)
長船町磯上油杉鉱山の鉛を使用)と推定している。
長船町磯上油杉鉱山の方鉛鉱を採取して、弾丸用の鉛のインゴットを製造したい。 鉛のインゴット復元により長船鉄砲鍛冶説の補説とする。
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http://www.geocities.jp/ki_warabi/index.htm 最新更新日2018/07/30